Sunday, August 16, 2015

こうなりたくない「日本人」

日本人は、「おもてなしが最高」「優しい」「親切」など言われているけれど、やはり帰国する度に私は疑問を感じてしまうことが幾度かある。町で会う人たちを観ていて、「偽善」や「フェイク」に見えてしまう。もしくは、その人達は「そう言われるからそうあらなければいけない」とどこかで思って、ある場面では、そう振る舞うことに気持ちよさを感じながらいわゆる「日本人」でいようとし、他の場面では振る舞うことに疲れた結果が出てしまっているように見える。

勿論、これは私の主観であり、アメリカに住んでいると私は、逆カルチャーショックを感じてしまっているだけだと思う。

日本にいる日本人が一番、日本の文化に気付いていない、と言われている。それらの人々は、他国や情報社会で言われるがままの「日本の文化」を鵜呑みにしているだけのように私は思う。つまり、国外に出て経験や体験を通して日本の文化を感じてそれに誇りを持つのではなく、何が具体的に称えられているのか解からないが、期待に応えようと、その「文化」に対応して振る舞っているだけのように思う。結果を言えば、だから「個性」が少ないように思うし、「偽善」「八方美人」「フェイク」などを私は感じてしまう。

それに比べ、アメリカで出会う人々は、日本の文化のように「最高のおもてなし」を持っていないかもしれないが、我を信じ、我の生き方を突き通して振る舞っているように思う。これを称賛するか批判するかは、賛否両道だと思う。「笑顔が少なく、愛想がない」という人もいるだろう。しかし、私は、個人的には、我を失って愛想を振りまくり、ある場面では「愛想」を不必要だと個人的に判断をして、意地悪さを垣間見せる人たちの方が苦手だ。

しかし、ここで言えるのは、結局、人それぞれによって違うということだ。私は「嘘つき」「フェイク」「偽善」「八方美人」を感じる日本人と深く関わることが苦手で、敏感に感じすぎて上手く自分から絡めず、一時の付き合いになってしまうことが多い(考えすぎの人間だからかな)。そして、居心地の良さを感じる人は数少ない。しかし、個性に満ち溢れ、周りの目を気にせず我が道を信じて突き進み、周りの生き方を批判しない、人たちも周りに数少ないけれどいるわけで、それらの人達からは不思議なことに「フェイク」を感じない。私は、そういう人達を信頼しきれ、友人関係を続けたいと思うことに気付いた。

一方で、アメリカで出会う人々も、意地悪な人は意地悪だし、優しい人は優しいし、面倒見がいい人は面倒見がよくみんなに平等な愛を与えるし、ケチな人はケチだし、愛想が悪い人は常に悪い。結局こちらも、人それぞれによって違うけれど、基本、大切なはずの人々を平等に愛せる人が個人的に好き(笑)考えがまとまらないので、適当に(笑)

アメリカは異文化が入り混じっている分、人々の個性も様々であり、まだまだ無知な私からして、アメリカの文化について考えることは限度があるけれども、結局、私はアメリカの文化の中に住む方が合っているのだと思う。昔から日本にいて周りに何か馴染めないとこはあったし、自分が変なんだと思ったりして悩んだりもしてきた。「協調性がない」やら「社会人としてあかん」などと言われるかもしれないけども、やっぱり偽っていくうちに自分らしさを失う方が嫌だ。「偽」で振る舞うことが嫌いであり、「偽」で振る舞っては、人を選んだり違う場面では意地悪になったり陰口を言ったり態度が悪い人たちにはなりたくない。

最後に、最近の一番の悩みは、アメリカに住んでいるくせに「私らしさ」を失いかけている気がすること() あかんやん矛盾してるやん() 環境のせいにするわけではないけれども、自分が追いかけているものに関わりが減ってきているからだと思う。やっぱり、一度きりの人生を何となくでは生きたくはないし、常に努力をして何か達成して満足を自分でつかみ続けたい。後ろめたいことはしない自分でありながら、今後また個性を活かして我の道を築いていかなければいけないことに気付かしてもらえた帰国であったとさ♪ 今回は、大切な人の知り合いに会い、居心地の良さを感じたとさ♪ こういう事を日記にずらずら書くのはひかれるかもしれないけれど、自分が感じ続けてきたことを記録に残そうと、今回は久しぶりに思ったとさ♪

おしまい




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